亀倉雄策賞というのはその年間に最も活躍し、その年間を代表する秀作をつくった人に賞を与えるということになっている。何歳になっても現在の作品が認められるということは、仕事をする者にとって、これほど嬉しく名誉なことはない。
しかし、一方視点を換えてこの賞というものを考えてみる場合、いま私がこんな賞を受けていいのだろうかという疑問がのこる。そのひとつは年令である。作家に年はないと云われ、私もそう思うが、例えば感覚や技術が衰えず、みずみずしい感性の人があったとしても、その時代を過ごしてきたという事実は偽ることはできない。賞というものは、「ご苦労様」とその人の業績をねぎらうものと、一方その人の未来の時間に対する可能性に期待して、励ましを贈る場合とがある。私は亀倉賞というのは、どこまでも後者であって欲しいと願っていた。
この賞は、『JAGDA年鑑』収録のために日本全国から集められたその年のグラフィックデザインの中から、特に優れた作品を十数点選び出し、審査にはこの年鑑のために選出された人たちがあたる。しかし、いざ秀作を集めてみると、そのほとんどが審査員の作品で占められる。デザインの審査員というのはどうしてもその時代をヴィヴィッドに生きている人が選出されるからである。これはデザインという仕事の宿命的なことである。
この審査会も、あまり「仲間うち」にならないようにと、デザインに見識のある3人のゲストを外部から招待して、少しでも客観性をもたせ、誰もが納得する賞に育て上げるべきだとも考えられた。 私は亀倉先生の生前、それも亡くなられる数ヶ月前に夕食をともにする機会があった。先生は、日本ばかりでなく海外のデザイナーを含めて、狭いグラフィックの領域を超えたものをめざそうなどと盛んに話されていた。晩年、先生が異常な程の情熱をこめて編集された雑誌『クリエイション』に極めて具体的にその方向性が示されていると私は思う。
成長の可能性、領域の超越、世界的視野、これからのアウォードはこの3つを忘れてはならない。そしてもうひとつ、作品に現代の問題意識があれば更にいいのだが。
田中一光
TANAKA Ikko
1930年奈良県生まれ。1950年京都市立美術専門学校卒業。日本デザインセンターを経て、1963年田中一光デザイン室を設立。1997年10月~1998年9月の主な活動として「Tanaka Ikko:La Grafica del Giappone」展(ミラノ)、「田中一光:伝統と今日のデザイン」展(富山)の開催、「デザインの世紀展」(パリ、大阪)への出品、「サルヴァトーレ・フェラガモ展:華麗なる靴」(東京)のグラフィックアートディレクションなど。2002年1月に逝去。
(1999年6月現在/同氏は2002年1月逝去)
掲載書籍:『JAGDA年鑑1999』